文化・歴史

ペリー提督も立ち寄っていた!小笠原の歴史や文化は面白い

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小笠原の特殊な歴史と文化

小笠原といえば海、森、世界自然遺産というふうに、「自然」という言葉がすぐに連想される。

一度も陸続きになったことのない、絶海の海洋島は独自の生態系を形成し、その自然界における特殊性が今では多くの人を惹きつける最大の魅力となっている。

島を訪れる人は観光客に止まらず、多くの研究者なども調査のために小笠原の世界を見に来る。

世界自然遺産に登録されてから、小笠原諸島という場所の認知度も以前に比べるとだいぶ上がった。

しかしその一方でこの島の自然以外の側面、特に文化や歴史が大きく取り上げられることはそれほどない。

小笠原諸島は貴重で美しい自然が残る場所であると同時に人間が暮らし、独自の文化が育まれてきた場所である。

その文化と人々の物語は、この島の自然と同じく貴重で重要なものだ。

小笠原の文化

小笠原の開拓の始まり

先史時代の遺跡などが北硫黄島で発見されていることから有史以前にも人が住んでいたことが伺えるが、記録上初めて人が小笠原諸島に定住したのは1830年にハワイから渡ってきたナサニエル・セーボレーらを含む入植団の一行であった。

捕鯨船などにとって重要な補給地点の役割を果たせる小笠原を開拓するために彼らは入植し、そのまま住むようになった。

小笠原の存在自体は16世紀に認識されていて、17世紀には島谷市左衛門が江戸幕府の命によって巡検し、産物を調査し、海図(地図)をつくった。

しかしナサニエル・セーボレーらが入植した時に人は島に住んでおらず、小笠原はまだ正式にどの国にも属していなかった。

そして彼らは自分たちの手で島々を開拓していった。

島谷市左衛門が1675年に小笠原を訪れた際に書いた地図

多くの国が小笠原に興味を持ち始める

19世紀には多くの船が太平洋を行き交うようになっていた。

そんな時代、最適な捕鯨基地としてイギリスやアメリカなど欧米諸国が小笠原に興味を示し始めた。

日本の歴史で有名なペリー提督も浦賀湾に来航する前に小笠原に寄港し、土地を購入するとともにナサニエル・セーボレーに自治政府の設置を促した。

そしてペリーはその後浦賀へと向かい、日本に開国を迫った。

世界の近代化の流れに直面した江戸幕府は日本の太平洋における領土や国境というものを強く意識し始めたことだろう。

そういう意味でも、多くの国が興味を示していた小笠原諸島は幕府にとって重要性が増していた。

江戸幕府は改めて小笠原の日本領有を主張し、直後に初めて日本人が入植することになる。

それが西洋と太平洋、そして日本が交わる、世界的にも独特な文化の形成の始まりであった。

ペリー・航海図

ペリー提督と当時の小笠原諸島近海の航海図。小笠原ビジターセンターで許可をもらい撮影

小笠原独自の言葉

ナサニエル・セーボレーら最初の定住者たちの母国語は英語などで、他のヨーロッパの地域やポリネシア出身の島民もいたためいくつかの言葉が混ざっていった可能性もある。

しかし正式に日本の領土となり、日本人の数が増えるにつれて日本語も徐々に浸透していった。

それでも多くの島民は依然として英語を話すことができ、扇浦にあった当時の小学校では英語も教えられていた。

それ以外の学校でも英語科はあり、明治末期まで子供達は日本語で勉強しながら、英語も習っていたようだ。

また、様々な文化的背景を持つ人々の影響によって独自の言葉も生まれた。

例えば小笠原の代表的な花の1つであるムニンデイゴは「ビーデビーデ」という名称で親しまれているが、語源はハワイ語から来ている。

ビーデビーデの花

島の生活文化

また、異なる地域から移ってきた人々はそれぞれの日常生活において必要なものを持ち込んで育てるようになった。

島に定住し始めた日本人は竹や杉といった、資材になる植物を植え始めた。

そのため今でも亜熱帯の雰囲気の森にいきなり竹が出現するところがある。

農業になると当時の日本では珍しい亜熱帯の果実などが育てられ始めた。

先住民が持ち込んだと思われるパイナップルが、日本で初めて栽培されたのは小笠原と言われていて、硫黄島などでも多く作られるようになった。

コーヒーが日本で初めて栽培されたのも小笠原であった。

また、食文化も多種多様であったに違いない。

今でも伝わっているものでは島寿司(江戸や八丈島から伝わったと思われる、カラシを使った寿司)、ピーマカ(魚の酢漬けでハワイ語が由来)、そしてダンプレン(「ダンプリング/ Dumpling」の訛りで、塩ベースのスープに入ったすいとん)などがある。

島のコーヒーの実

日本とアメリカの間を行き来した小笠原

独自の言葉や生活様式が発展していた小笠原であったが、時代の変化や戦争によってその流れが遮断されてきたようにも思う。

戦争のために日本と外国(アメリカ)の間を行き交うことを余儀なく強いられた小笠原の人々は想像できないような経験をしてきたはずだ。

それは西洋や太平洋のルーツを持つ「欧米系」の人たちのみならず、日本人の島民も同様である。

実際にその時代を生きた人たちが減るにつれて、その文化も少しずつ忘れられていく。

このような現象は小笠原に限ったことではないが、非常に寂しい気持ちがこみ上げてくる。しかし幸い、そんな小笠原の人々の物語に関心を持つ人も増えているようだ。

先日、島を訪れていたカナダの大学教授とその家族と話す機会があった。彼らの目的は世界自然遺産を訪れてそこの人々や文化について研究し、ドキュメンタリーを制作することだと教えてくれた。

最近は彼らのように小笠原の文化的側面に興味を示す人が訪れるようになっていて、とてもありがたいことだと感じている。

返還式

1968年の返還式。小笠原ビジターセンター許可をもらい撮影。

小笠原の文化の貴重性

薄れていく小笠原の文化を残す方法があるとしたら、それは現代の人々がその歴史や事実を知ることである。

昔の島民の話を伝え、生き方を学ぶことによってその思いや文化は生き続ける。

今年は小笠原返還50周年という節目の年だ。

小笠原の文化と歴史を後世に伝えるというのはもちろんだが、島の未来を作る上でも、ここの人間と過去に目を向けるのは非常に大切なことだと思う。

フリーペーパーORB編集長

Ludy

小笠原諸島のフリーぺーパー「ORB」を発行しています。
FB: @boninislandorb
Instagram: @freepaperorb

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